龍華、ではクラシック音楽の作曲家、曲についての解説。 またクラシック音楽の解説に付随して、動画の紹介なども行って行きます。

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饂飩粉

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龍華 / クラシック(作曲家・曲解説)
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2009.05.14 Thu
ヴェルディ
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi


ヴェルディ

歌劇「ナブッコ」や「アイーダ」などのイタリアオペラを次々に作曲し、
「歌劇王」とまで言われたヴェルディは当時ナポレオンの占領下にあった
北イタリア・パルマ公国領で宿屋の息子として生まれました。

ヴェルディの音楽的な才能は幼少時から現れ、8歳頃よりオルガンに興味を持ち、
10歳にして教会のオルガン奏者にまでなりました。
その後ブッセートに移ったヴェルディは音楽の勉強を本格的にはじめました。

しかし、授かった2人の子供が亡くなってしまい、その数年後には妻も亡くなり、
作曲活動は思うようには進みませんでした。

そんな中、最初のヒット作となったのが29歳の時に作曲した「ナブッコ」でした。
その後は作曲依頼が大量に舞い込むようになり、年に1つというペースでオペラを作曲する多忙な時代に突入していきました。

数々の名作を生み出したほかにも、貧しい芸術家のための老人ホーム「憩いの家」を完成させるなど、
イタリアの芸術、音楽界に多大な影響を残した作曲家となりました。
ヴェルディは「憩いの家」を完成させた後に脳卒中で亡くなり、
彼は「憩いの家」に埋葬されています。







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ブラームス(1833-1897)    Comment(23)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.13 Wed
ハチャトゥリアン
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン
Արամ Խաչատրյան (アルメニア語)

ハチャトゥリアン

トビリシ(グルジアの首都)に生まれたアルメニア人のハチャトゥリアンはモスクワで音楽を学ぶ。
作曲において非常に高い評価を受け、現在も多くの曲が親しまれている。
ごく最近だと、仮面舞踏会がフィギュアスケートの浅田真央さんの演技に使われた。
社会主義リアリズムの代表的作曲家とされており、
プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共にソヴィエト3巨匠の一人と称された。

作曲のほかにも、自作曲の指揮を手がけたり、映画音楽を手がけてチェコスロバキア国際映画祭で個人賞を受賞したりと活動は多岐に渡る。
















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ハチャトゥリアン(1903-1978)    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.12 Tue
チャイコフスキー
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Пётр Ильич Чайковский

チャイコフスキー

ロシア出身で、クラシック音楽の歴史の中でも最も人気のある作曲家の一人でしょう。

元々法律学校を出て、法務省でキャリアとしてエリートの道を歩んでいたチャイコフスキーですが
アントン・ルビンシテイン(ルービンシュタイン)の作ったロシア初の音楽院、ペテルブルグ音楽院に入学し、
音楽理論などの勉強を本格的に始めます。
はじめは2足のわらじで法務省の仕事と音楽の勉強を両立させていますが、
入学当初チャイコフスキーの妹に宛てた手紙にも書かれている通り、
音楽の道一本に絞ることになります。
しかし、音楽の方向性などから、師であるA.ルビンシテインと対立をしたチャイコフスキーは
A.ルビンシテインの弟、ニコライ・ルビンシテインとの出会いもあり、
活動の拠点をペテルブルクからモスクワへと変えます。

モスクワへと活動の拠点を移したチャイコフスキーはA.ルビンシテインの協力もあり、
ロシア5人組との交流を始め、また落ち着いた環境で彼は作曲へと没頭します。

晩年は益々油の乗った作曲活動をし、傑作を多く生み出していきます。
しかし、交響曲第6番「悲愴」の初演9日後に弟の家でチャイコフスキーは亡くなってしまいます。
死因には諸説あり、解明はされていませんが有力な説として「コレラによる死」と「自殺」の二つがあります。









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チャイコフスキー(1840-1893)    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2009.05.11 Mon
ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven

ベートーヴェン

クラシック音楽史上もっとも偉大な作曲家として楽聖とも呼ばれる、ベートーヴェン。
父・祖父ともに宮廷歌手であったが、父が無類の酒好きだったため祖父の支援により生活をしていました。
祖父の死後は父から過酷なまでの音楽教育をされ
母の死後酒におぼれて色を失った父に代わり家計を支え、
あまり音楽の勉強に力を入れることのできない環境であったと想像されます。

しかし1792年、ハイドンにその才能を認められて弟子入りを許可されまもなくウィーンに移り住むことになります。
ここから音楽家としてのベートーヴェンの生活が始まります。
しかし、持病の難聴の悪化により20歳後半には耳が聴こえなくなってしまいます。
耳が聴こえない中、一時は生きる希望を失いますが
その後生きる意志を再び持ち、ピアノの即興演奏の名手として、また作曲家として活躍を続けます。

そんなベートーヴェンの活躍ぶりを示すかのように、
葬儀には異例とも言える3万人もの人が駆けつけたといいます。





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2009.05.11 Mon
レスピーギ
大分、ご無沙汰しておりました。

今回はレスピーギについて。

オットリーノ・レスピーギ
Ottorino Respighi
レスピーギ

レスピーギと言えば、代表作にローマ三部作などがある、イタリアのボローニャ生まれの作曲家です。

音楽教師だった父からヴァイオリン・ピアノの手ほどきを受けたレスピーギは音楽学校を卒業後ロシアに渡り、ヴィオラ奏者として活躍します。
その傍ら、リムスキー=コルサコフから作曲の手ほどきを受け、これが彼の後の作曲活動に大きく影響していると言われています。

彼が本格的に作曲を始めたのは、1900年に入りイタリアに帰国してからで、
イタリアではローマのサンタ・チェチーリア音楽院教授に就任するなど、教育者としても活躍しました。

現在よく知られている曲としてローマ三部作(「ローマの松」「ローマの祭り」「ローマの噴水」)やリュートのための古風な舞曲とアリアがあり、
非常に色彩感のあふれるオーケストレーションに仕上がっている曲が多いです。




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レスピーギ(1879-1936)    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑